沿 革 |
昭和21年 |
故尾崎信重氏が自宅の庭において近所の子供を集めて剣道を始める。当時は連合軍により、武道が厳しく禁止されていた為門を閉め、外から見えないようにし、運動靴を履いて稽古をする。戦後で物資の少ない時代だった為、稽古が終わった後の皆で食べる水団が楽しみで稽古に来る子供達も徐々に増え、一般の人達も稽古をする為に集まってくる。 |
|
昭和22年 |
人数が増えるとともに、何とか広い板の間の道場が欲しい、又隠れてする事なく堂々と稽古がしたいとの思いから、時の神戸市長中井一夫氏を通じて剣道再開の許可を連合軍に申し入れる。約半年後、連合軍から「一度剣道を見たい。」との連絡があり有志一同が剣道本来の姿を認識してもらう為に中山手の相楽園で連合軍将校を前に剣道を披露。数ヶ月後、連合軍より条件付で剣道許可の内諾を得る。時を前後し、信重氏の義弟、延原一夫氏の紹介で兵庫区平野町に中本氏所有の体育館を借り、範士八段千葉敏雄先生、範士八段崎本武志先生、範士七段片山時雄先生、教士七段堀江泰治先生ほか多くの人達と稽古に励む。 |
|
昭和26年 |
区画整理により体育館の立退きを余儀なくされるが、再び、延原一夫氏の紹介により大倉山の藤原会館を借り稽古に励む。しかし、又も区画整理の為当館の立退きを余儀なくされる。 |
|
昭和30年 |
尾崎信重氏経営の尾崎工業内工場二階に、仮設の原寸場兼道場を建て、名前を「一信館」と定め、稽古に励む。 |
|
昭和45年 |
又も区画整理により、道場ほかすべてを取り壊す。 |
|
昭和48年 |
青少年の健全な育成に、必ず役立つものとの考えから、尾崎氏の住居の一部に道場を建設、三年遅れの創立十五週年記念式典を行なうと共に、範士九段松本敏夫先生を名誉師範に迎え、師範高橋秀三範士八段、堀田國弘範士八段、従来からの会員、教士七段橋本奎三先生を筆頭に毎週火木土曜日と週3回の稽古に励む。道場は剣道の稽古だけでなく、居合、薙刀、詩吟、民謡、日本舞踊など数多くの武道、お稽古ごとに無料で開放される。 |
|
平成7年 |
阪神淡路大震災により道場は大きなダメージを受けるものの倒壊をまぬがれる。神戸市内の多くの道場、体育館が使用不可能となった為、各地から多くの人が稽古に訪れる。 |
|
平成8年 |
道場解体。 |
|
平成13年10月 |
神戸市立中央体育館を借り稽古開始、現在に至る。 |